2013年6月15日土曜日

武者小路千家若宗匠・千宗屋さんの講演を聴く

本日は、青山・善光寺で、お茶に関する講演を聴いた。
















講師は、千宗屋さん。
今や海外においても「茶の湯文化」の紹介者として
華々しい活躍をされている、武者小路千家の若宗匠である。

美術史の造詣も深く、美術品に関する確かな眼を
お持ちの方である。
















今日の会のタイトルは、
「隨縁茶話・『いまを生きる茶』の魅力について」である。


















お話のテーマは、「殊光(“珠光”と書く場合もある)」。
殊光が弟子宛に書いた「心の師の一紙」を中心に。



<心の師の一紙(心の師の文) 原文ママ>

「古市播磨法師   殊光    

此道、第一わろき事は、心のかまんかしやう也。

こふ者をはそねみ、初心の者をは見くたす事、一段無勿躰事共也。

こふしやにはちかつきて一言をもなけき、又、初心の物をはいかにもそたつへき事也。

此道の一大事は、和漢のさかいをまきらかす事、肝要肝要、ようしんありへき事也。

又、当時ひゑかるゝと申して、初心の人躰か、ひせん物、しからき物なとをもちて、

人もゆるさぬたけくゝむ事、言語道断也。

かるゝと云事はよき道具をもち、其あちわひをよくしりて、心の下地によりてたけくゝて、

後まて、ひへやせてこそ面白くあるへき也。

又さはあれ共、一向かなはぬ人躰は、道具にはからかふへからす候也、

いか様のてとり風情にても、なけく所肝要にて候。

たゝかまんかしやうかわるき事にて候、又ハ、かまんなくてもならぬ道也、

銘道にいわく、

心の師とハなれ、心を師とせされ、と古人もいわれし也」



この文の中から読み取れることは、本当にいろいろあるにちがいない。
だが、道具を持たずに、お茶を始めようとしている
私の心に突き刺さってきたのは、下線の部分である。

「道具を持たない人は、無理をしてはいけない。背伸びしてもいけない。
どんな日常の品々の中にも、美を見出すことはできるものである」

日々の暮らしの中に「美」を見つけていこう。
美を見つけるための眼をもちたいと思う。








































後半は、お茶席で、お濃茶をいただく。

室町の山水画がかかる床と殊光青磁の主茶碗。
立派なお道具と創意工夫の道具あわせ。















道具は持たずとも、道具についての知識と審美眼を磨き、
席主が何を創り出したかったかを見極める力をつけること、
そのために励むことは、深く、広い。

お茶の道には終点がない。
だからこそ、人を魅了し続けるのかもしれない。





















友人に誘われて出向いた会であった。
心にかけてくれる友人がいること、ありがたい。

そして、会が終わって、語らう楽しさもまた格別。


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