2013年11月26日火曜日

職人気質の店・祖師谷大蔵「うな鐵」


小田急線・祖師谷大蔵の駅で友人たちと待ち合わせ、
以前から「行きたい行きたい」と言い続けていた鰻屋さんへと急ぐ。

先月は1ヶ月間、母の看護に明け暮れ、
今月は、私にとってとても大きなイベントがひとつ片付いた。
このへんで、ちょっと一息つきたい。
友人たちとの日程調整もうまくいき、
今日、飛んでいくことになった。



目的の鰻屋さん「うな鐵」に到着した。どこの商店街にもありそうな、さりげない入り口。

















さて、何が待ち受けているのか。ちょっとドキドキしながら、中へ入る。







予約してあったテーブル席に着き、
カウンターの上にある、お品書きを見上げた。
書いてあることがよくわからない。




手元の説明書きを読む。

かま…かまを圧力釜でやわらかく蒸したもの
ひれ…しっぽとヒレをニラと一緒に巻いたもの
くりから…背中の身の白焼をわさび醤油で
串巻…腹身をパリッと塩焼で
白ばら…皮をはいだ鰻のお肉
ばら身…あばら骨の付け根の部分

鰻の頭から尻尾まで、あらゆる部位を料理して食べさせてくれるだ。
しかし、それぞれのお味は???

何度も通っている友人にオーダーはお任せすることにした。



串焼の、ばら身(塩)、白ばら、きも、くりから、ばら身(たれ)と続く。

















どれもとても美味しい。



骨のからあげ、これはやみつきになりそう。





















次は野菜(銀杏、獅子唐、椎茸)の串焼。

















どれも忘れられない美味しさである。



次に、串焼のひれも試す。





















美味しかった。



ひきたての山椒もきいている。















そして、最後はこれ。


















 
満足。
そのひとことに尽きる。



職人としての素材を選ぶ目、
さばき方、焼き方、味の付け方などの料理の腕、
すべてがそろっていてこその品々。
ごちそうさま。



今日は、友人が頼み込んで、
持ち込みのお酒(ワイン)を許してもらえた、と聞いて驚いた。

気取ることもなく、媚びることもなく
注文したお皿が次々に、気持ちよく出てくる。

愛される理由は、「味」だけではない。






2013年11月25日月曜日

西生田の茅葺屋根の家

今日は、友人をたずねて、小田急「読売ランド前」駅まで行く。
新宿から急行に乗り、「成城学園前」で各駅停車の乗り換えれば
7つ目の駅である。

この駅は、開設当時は「西生田」と名づけられたが、
1964年によみうりランドが開園したことから、
「読売ランド前」と改称されたそうである。


午後2時少し前、天気予報は雨だったが、まだ降っていなかった。

この駅に降り立つのは初めて。

まず目に飛び込んできたのは、
改札口がある側と反対側にある色づいた山。
山をもっとよく見たくて歩道橋を渡っていく。
すると目に入ってきたのは、茅葺屋根の家。
思わず引き寄せられ、家の前まで行ってみた。
友人と待ち合わせしている場所とは反対方向であったが。





 















































晩秋の自然の中に溶け込み、
目の前の道路を走る車とは全く無関係のように立つ、
その家の姿にしばし見入った。

あとで聞いたが、個人宅だそうだ。
手入れや保存は、さぞや大変だろう。



駅の改札口に戻り、そこから左前方に入っていく小路を見つけて進む。
その奥はまた驚きの空間だった。


















































背の高かい棕櫚の木が遠くからも目立つ「ビストロ棕櫚」。
古い民家を改築して、優しく肌になじむ空間をつくりあげている。

秋刀魚の香草焼きのスパゲティとボジョレーヌーボー、美味しかった。
ごちそうさま。

自然のなかにとっぷりと浸り、すっかり癒された午後の時間だった。
















2013年11月17日日曜日

青山善光寺での「港区華道茶道連盟創立65周年記念茶会」


青山善光寺の茶室で、本日は「港区華道茶道連盟65周年記念茶会」が催された。

立礼席   香席 御家流丹霞会 小泉霞明先生
広間1席  茶席 宗編流  石川宗元先生
広間2席  茶席 裏千家  岩田宗冨先生

朝10時からの開催であったが、9時くらいに着くと、
すでに入り口にはお待ちになっている方々があり、
席入りは早めに行われた。
















香席では、香炉が回って来る途中で香木が滑り、
新しいものを用意していただいているうちに、
他で回っていた香炉が回ってきて、
同じ香を、ちがう香炉で2度聞くことになる、というハプニングがあった。

席主から「同じ香でも、その時の火の具合でちがったものに感じられる」
とのお話があったが、まさにその通り。
全くちがう印象となり、最初の印象がすっかり取り消されてしまった。

このようにかおりというものはよりどころのない不確かなものであり、
修行が足りない私は、いつも広い野原に放り出されたような
漠とした不安な気持ちになる。

その微細なちがいを聞きあてることを遊びとした、
日本人の繊細な感覚を改めて「凄い」と思った。

香席のテーマは「波」。
お床には、消息を表装したお軸の下に盆景が置かれ、
細やかな波の表情を映し出していたのが印象的であった。



 


次に、宗徧流の濃茶席、裏千家の薄茶席へと回る。
いずれも、お道具、お菓子などに季節や心が感じられる
お席を楽しませていただいた。

宗編流のお席では、お床のナンテンハゼの照葉の鮮やかさ、
水指の青磁色の爽やかさが、渋いお道具がそろったお席全体の中に
ぽっと絵具の明るい色を落としたかのような効果があり、
新鮮に感じた。

裏千家のお席のテーマは「炉開き」。
美しい照葉の色のお菓子や織部の重厚なお茶碗。
手元に十分な満足感のある、お気持ちのこもった席であったと思う。




今回の3席、あまり待つことなく入れたのは、
主催者側の工夫もあると思う。









 
 
 
お稽古とは御無沙汰しているけれど、こうして茶会に参加していると、
茶会を楽しむ術が少しずつわかってくるような気がした。

建築空間、道具のしつらえ、集まる人々の着物、
すべての意匠が、美を楽しむことを教えてくれる。
なんと豊かな時間、空間なのかと思う。

日常の中で、これらのものがあまり見られなくなってしまった現代では、
非日常空間に身を置き、一体化することで、
限りない癒しの効果を得ているにちがいない。







2013年11月8日金曜日

根岸の里散歩(3)・お行の松


今日は、地下鉄日比谷線「三ノ輪」の駅で降り、
根岸・西蔵院まで歩いてみることにした。

日比谷線「三ノ輪」の次は、「南千住」「北千住」と続く。

千住といえば、隅田川にかかる「千住大橋」を思い出す。
広重の『名所江戸百景』には、
遠く奥州や日光へ向かう旅の始まりを感じさせる、
情緒たっぷり画面の中に橋の姿が描きこまれていて、印象的である。

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お江戸日本橋から千住への道は、
また改めて機会を設けて歩いてみたいと思う。


江戸期へ思いを馳せながら、「三ノ輪」で下車し、
3番出口から地上に出て、驚く。
そこは、昭和通りと明治通りの交差点にあたり、
大型ダンプカーが、私の妄想をかき消すように目の前を通り過ぎていく。
ぼんやり歩いていると危険かもしれない。

気を取り直し、根岸方向に向かって歩いていく。



途中「金太郎飴本店」に立ち寄った。

































同じなようで同じではない顔の図柄。手作りの可愛らしさがたまらない。


















根岸5丁目から4丁目を通り、3丁目の西蔵院まで歩くのが
今日のコースである。

「金太郎飴本店」の先を右に折れ、裏道に入る。

ここ根岸5丁目には、
江戸期の絵師・酒井抱一が住んでいたという。

この辺りか?というところはちょうど工事中で、
立札もなにもなく、しばらくぐるぐると付近を歩き回ったあと、
何も形跡を認められないままそこを後にした。

蔦に覆われた金曾木小学校(創立110周年)の建物を横目で見ながら、
抱一が書いた幟旗があるという石稲荷神社を過ぎると、
かつての「音無川」が、今は地下の暗渠として流れる小路らしきところに、
行き合う。

左へ進めば西蔵院の方向であろうと、
大体目鼻を付けて進むが、
小路はクランクのように折れ曲がり、また途中同じような小路と交差し、
音無川の上を歩いていく、という私の試みは、
成功したのかどうか…よくわからない。

が、ともかく間もなく見えてきたのは、西蔵院近くの景色。
「お行(ぎょう)の松」がある「不動堂」の場所にたどり着いた。

大松は音無川のほとりに立ち、
ここにはかつて「呉竹橋」という橋がかかっていた、という。






























松のそばに立つ説明書きには下記のようにあった。

江戸期から、「根岸の大松」と人々に親しまれ、
『江戸名所図会』や広重の錦絵にも描かれた名松。
現在の松はその三代目である。

初代の松は、大正15年に天然記念物の指定を受けた。
当時、高さ13、63メートル、幹の周囲4、09メートル、
樹齢350年と推定された。

枝は大きな傘を広げたようで、
遠くからもその姿が確認できたという。

しかし、天災や環境悪化のため昭和3年に枯死。
同5年に伐採した。
二代目の松は、昭和31年に上野中学校敷地内から
移植したが、これも枯死してしまい、
昭和51年8月、三代目の松を植えた。

戦後、初代の松の根を土中より堀り出して保存し、
不動堂の中にこの根の一部で彫った不動明王像をまつり、
西蔵院と地元の不動講の人々によって護持されている。

御行の松の名の由来に定説はないが、
一説には松の下で寛永寺門主輪王寺宮が行法を修したから
ともいわれる。また、この地を時雨が岡といったところから、
別名「時雨の松」とも呼ばれた。



不動堂から目と鼻の先にある和菓子店「竹隆庵岡埜」の包み紙にも、
「根岸・お行の松」の姿が描かれている。

































明治期に根岸2丁目に住んだ(今もその跡が「子規庵」として残る)、
正岡子規の句がある。

町中を 小川流るる 柳かな  (明治27年)


小川とは、音無川のことだろう。
埋められてしまった、その流れを取り戻すことは
もうできないのだろうか。

震災や戦災を経たのち、
すっかりコンクリートで固められてしまった街並み。

水の流れとその周辺に茂る草木の姿を、
今はもう、目を閉じて思い描いてみるしかない。




2013年11月3日日曜日

三重県桑名市「六華苑」・コンドルの洋館

姪の結婚披露のパーティーに招かれ、
訪れたレストランは、近鉄・桑名駅からタクシーで約15分、
「六華苑」という庭園・建物を誇る地の中にあった。

















30年もの間、何度も桑名へは足を運んでいるのに、
「六華苑」という名を耳にするのは、今日が初めてだった。
あとから聞くと、長く三重県に住んでいても知らない、という人が多いらしい。

でも、このような文化財は皆に愛され大切にされていくべきであると思うので、
せめてここに書きつけておきたい、という気持ちになった。




「六華苑」は、山林王と呼ばれた桑名の実業家、
二代目諸戸清六の邸宅として大正2年に竣工したそうである。

揖斐・長良川を望む約18,000㎡余の敷地内に、
洋館と和館、蔵などの建造物群と日本庭園で構成され、
創建時の姿をほぼそのままとどめている貴重な遺構である。

洋館と和館は、平成9年に国の重要文化財に、
庭園は一部を除き、平成13年に国の名勝に指定されている。

桑名の地は、戦災と伊勢湾台風で街が壊れ、
桑名城の城下町としての姿を、今は見つけることがむずかしい。
そのような地に、今も残る「六華苑」の姿を見つけることができたことは、
私にとって、姪の晴れ姿を目にすることと同じくらい嬉しい出来事だった。



まず和館内を見学する。
細部にこだわりすぎず、おおらかなつくりの座敷が心地よい。





 

たぶん、外の眺めを取り入れて完成する、という考え方なのであろう。
引き算の美学を感じる。









































庭園は、池泉回遊式。
和館北側の内庭は、茶匠・松尾宗吾の好みが反映されているという。
今日訪ねたのは夕刻であったが、日中、茶会が開かれていたらしく
着物姿の人々が片づけの最中であった。




和館からつながっている洋館部分は、ジョサイア・コンドルが手がけ、
地方に残るコンドルの唯一の作品として注目されているという。




























中に入ってみると、意外に広々しているが、
外からの印象は、可愛らしいショートケーキのよう。
堂々たる日本庭園と威厳のある和室のつくりとは対照的で、
広大な敷地の中で、一種のアクセントになっているように感じられた。



















































洋館の上層階から眺める庭の景色は、
同じ庭であっても和館からの眺めとはまた違った印象である。
 
すぐ間近にある小さなものを愛でて自然と一体化する在り方と、
彼方まで広がる自分の領地を眺める城主のような在り方と、
明治や大正の邸宅にはこの両方が混在していて、
このような住空間の中で暮らした人々の気持ちにももう少し接近してみたい気がしてきた。