2013年12月27日金曜日

映画『武士の献立』を観て思う「生活の美」


映画『武士の献立』を観た。

江戸育ちで、卓越した味覚を持つ料理上手な

主人公(上戸綾)が加賀藩の包丁侍の家へ嫁ぎ、

夫(高良健吾)をしっかりと育て支えていくという流れに、

加賀藩のお家騒動や夫婦間の心のやり取りを絡ませ、

ストーリー展開もテンポよく、

タイトルからも想像できるように、

会席の御膳や四季折々の風景も目で楽しむことができる

満足度の高い映画だった。

しかし、ただそれだけではない。

もっと奥行きがある。

それはどこからくるのか。





 


たぶん台所という工房で、

自然界の恵みを料理へと変化させてく場面を

丁寧に描いているためだろう。

日本の生活文化の水準の高さを見せてくれた。

台所や奥向きの様子を動画にするのはむずかしい。

映画をつくるためには多くの下調べが必要だったにちがいない。

監督のこだわりが感じられる。






















上戸彩の身のこなしがよい。

歌舞伎や茶道などの身体の動きには、

様式美ともいえる、見せるための美がある。

それも日本の文化の昇華した美にはちがいない。

しかし、この『武士の献立』を見て気づかされるのは、

登場人物たちが日常空間のなかで見せてくれる、

水準の高い「生活の美」である。

昔の日本人は立居振舞がこんなにも美しかったのだなあ、

と感動する。





日本という国の美しさは、普通の暮らしの中にこそある。

そう思う。






















柚餅子(ゆべし)づくりの風景。

なんとのどかで美しいのだろう。

そこには自然を慈しみ、人の知恵を加え、感謝しながらいただく。

日本の本当の豊かさがある。




2013年12月25日水曜日

映画『利休にたずねよ』を観て


映画『利休にたずねよ』は、
市川海老蔵が利休を演じると聞いたときから、
楽しみにしていたので、公開と同時に観に行った。





















30代の海老蔵が、70歳の老いた利休も巧みに演じている。
前半は、言葉の重々しさと所作の美しさが息苦しいほどであった。
打って変わって後半は、10代の瑞々しく野性的な利休を
海老蔵が活き活きと演じている。
高麗の女人のために、市場で素材を買い求め、
自ら料理する場面(ここは原作にはない)など、
恋する若者の一途さが伝わってきた。
前半と後半、その双方が響きあって、
この映画の映画としてのおもしろみが出てくる。

少し前に読んでいた原作が頭に残っていたので、
ストーリー展開はわかっていたが、
原作が与えてくれた利休像よりもさらに新しい利休像が、
映画によって誕生した、と言っていいかもしれない。

映画を見終わったあと、
どうしても原作をまた読み直してみたくなった。
























再読し始めると、映画によって輪郭付けされた登場人物たちが
活き活きと動き出し、最初から最後まで一気に読めた。

時代を前へ後へと行き来し、その都度語る主人公を取り換えていく、
斬新な小説の手法(非常に巧みな職人技に驚かされた)に、
初めて読んだときには気をとられてしまい、
全体が一つにならなかったような気がする。
それとも、通勤電車の中で、細切れに読んだせいだろうか。

映画においては、緻密に書かれた原作の端々をばっさりと切ったり、
全く違う行動を登場人物に選ばせたり、潔いシンプルな展開になっている。
その方が自然なのかもしれない、と思わせる。
脚本家の才覚だろうか。

そんなことを考えているうちに、もう一度映画を観たくなった。

二度目の映画を見て、思い浮かんだのは、
茶室とは、祈りや鎮魂の空間なのではないか、ということ。

若かりし日、情熱的な恋をした利休だったからこそ、
その後、美に対する感覚を磨き、空間を非日常へと昇華させることが
できたように思う。

亡くなった人を、その人に対する強い情念によって
招くことができるのが、利休の茶室であったのだ…。



原作、映画、原作、映画と繰り返したおかげで、
少し深い世界に遊ぶことができたのではないか、と自己満足をしている。








2013年12月20日金曜日

お江戸日本橋から南千住まで、日光街道を歩く


午前10時に、日本橋の橋のたもとに集合。







 今年4月から、9才上の高校の先輩たちが集まって歩く
「古道を歩く会」に参加している。
 今日のテーマは、「日光街道を歩く、日本橋~北千住」。
 
「日本橋」のたもとから出発し、人形町、馬喰町を経て、浅草橋へ。
 
そこから、浅草、吉原界隈を目指すが、
その前に立ち寄る予定の、柳橋は以前からとても気になっていた場所である。
 
柳橋は、「柳橋芸者」という言葉でも知られるが、
江戸の頃には新橋などと並ぶ「花街(かがい)」だった場所である。
もっとも、新橋の位置はわかっても、
柳橋が東京のどのあたりかを言える人は少ないだろう。
今回、柳橋の場所を足と目で確かめられる。
期待が高まった。
 
 
「柳橋」にたどり着いた。
神田川にかかる「浅草橋」、その次の橋が「柳橋」。
その界隈のことを、かつて江戸の人は親しみをこめて柳橋、と呼んだ。
私達が「新宿」とか「銀座」と言うような感覚だったのではないだろうか。
 
 
 
 
「柳橋」の上から、神田川上流方向を眺める。
 
 
 
橋の上から下流方向を眺めると、もう目前が隅田川である。
神田川の流れがTの字にぶつかっている。
 
 
 
 
「柳橋」とは神田川にかかる、最後の橋のことだった。 
井の頭公園から湧き出した流れが、 神田川として隅田川までたどり着く。
その合流地点を見守っているのが「柳橋」なのである。
 
水路を利用して、人も荷も運んだ江戸時代には、
この界隈は交通の要所として、人の行き来も多く、栄えたのだろう。
  
江戸を感じさせる建物を目で探すが、
残念ながら、今はもう昔を偲ぶよすがはほとんど見つからなかった。
かろうじて見つかった光景をカメラに収めた。
 
 
 
 
 
浅草橋へ戻り、そこから隅田川をさかのぼるような形で北へ、
浅草方面をめざして歩き出す。
 
人形の「吉徳」などが並ぶ大通り「江戸通り」は、
江戸の頃には、浅草への初詣の人々で、
ぎっしりと埋め尽くされたという。
江戸通りの一本裏通りには、ひっそりと「銀杏岡八幡」が構え、
ここが古くから栄えた場所であることを物語っている。
 
 
 
昔のことを知っているのか、境内の椿にもなんだか風格を感じる。
 
 
 
再び、大通りをいく。
 
 
 
「駒形どぜう」の前を通る。
 


 
隅田川の「吾妻橋」では、アサヒビール本社のおなじみの光景が見えた。

この頃から、雲いきが怪しくなってきた。
天気予報があたってしまったらしい。
 
 
 
浅草寺近くで昼食をとり、そのあと浅草寺境内を抜けて、
浅草神社を経て、再び大通りに戻り北へと進んだ。
 
 
 

 
 
「山谷堀公園」という、堀を埋め立てて公園となっている場所を歩き、
かつての吉原の地へ入る。
 
今は、その地名も名前を変えて、千束という住所になっている。
隅田川から山谷堀を通り猪牙船(ちょきぶね)で入るのも、
吉原へ行く一つのコースであったという。
 
昔は華やかさもあっただろうが、
今はネオンのどぎつい色で飾られていても、
どこかウソっぽく、ただただうら寂しい。
行きどころのない遊女たちの魂が漂っているかのようだ。 
 
 
 
南千住へたどり着いた時、雨と風がひどくなってきた。
 
ここは小塚原の処刑場があった場所で、
延命寺境内にはその菩提を弔う地蔵菩薩像がある。
隣接する回向院には、
幕末の安政の大獄で命を落とした人々の墓が並んでいた。
 
 
 
今日はこれ以上歩くことは断念して、
先輩たちと別れた。
 
寒かったのは、雨と風のせいだけではないだろう。
 
歴史の流れの中には、
芸術のような美しいものも生まれているが、
多くの恐ろしいものこわいものもある。
たとえ見たくはないものであっても、
やり過ごしてしまってはならないのではないか、
と思う。
それらは、人間のおろかさというものを教えてくれるから。
 
 
南千住から北千住までは、
「いつかまた、晴れた日に歩いてみよう」
と思った。
 
 
 
 
 
 

2013年12月13日金曜日

出光美術館で「江戸の狩野派」展を観る


出光美術館(千代田区丸の内3-1-1帝劇ビル9F)で
「江戸の狩野派―優美への革新」(11/12~12/15)を観た。




























狩野派は、始祖・狩野正信が室町幕府の御用絵師に就任し、
二代目の元信が後世に続く堅固な流派を築いて以来、
桃山・江戸時代~幕末明治期まで、
日本画壇の中心的な存在でありつづけた一大画派である。

京都から江戸へと進出した探幽(永徳の孫 1602~74)は、
伝統を受け継ぎつつも、宋元画や雪舟の画を深く学び、
余白を生かした優美・瀟洒な絵画様式を確立する。

早熟で天才肌であったと言われる探幽。
その弟、尚信と安信もまた狩野派の絵師である。

探幽の絵と共に並べられた弟たち二人の絵には、
それぞれに伸びやかな個性が感じられ、
父孝信の教育がよかったのか…
探幽がよき兄であったのか…
と考えると、なんだか微笑ましい。

よき親子関係、兄弟関係があったからこそ、
「江戸狩野」は永く続いたのであろう、
と勝手に想像し、納得する。



出光美術館は1966年に開館した、
古きよき雰囲気を今も残す美術館である。

今日は、金曜日のため、夜8時まで開館している。
見終わると、窓際の休憩スペースには、
夜景を見ながら語り合う人たちの姿が見えた。
心和む風景である。

20年以上前のことになるが、
幼い娘を連れてこの美術館に来たとき、
年配の女性の係の方がニコニコしながら、
「いい子にしてるね」と娘に話しかけ飴玉を手渡してくれた。

小さい子供を連れて美術館へ行くと、
監視員に厳しくチェックされているように感じ、
私はいつも身が固くなっていた。
そんな時、さりげない優しさにふと触れて、
涙が溢れ出そうになったのを思い出す。

平成になったばかりの頃は、
ベビーカーを駅構内や電車内では畳まなければならなかった。
「子供はうるさいから新幹線に『禁煙車』ならぬ『禁児車』を
つくってほしい」と、ある有名人が堂々と発言していた。
幼児を連れての外出は、人に迷惑をかけてはいけない、
という思いでとても緊張した。そのような時代だった。

あれ以来、この美術館に来ると、その時の親切な係の方の対応を思い出しては、
気持ちがあたたかくなる。




 





エレベーターで1階に下り、ビルの外へ出る。
右へ行くと、ブランドのお店が華やかに並ぶ、丸の内仲通りである。
年末のイルミネーションで、さらにこの時期は華やかさが増している。

ふと見ると、京都の「一保堂茶舗 丸の内店」があり、
奥にはお茶をいただける場所もあるようだった。

まっすぐ帰るつもりだったが、ちょっと休憩。
喫茶「嘉木」で、お抹茶と和菓子をいただくことにした。
茶名は「北野の昔」、和菓子は「吉例」(歌舞伎の幕の色合いである)。


















ふっくらとした香りと口当たりに癒やされる。

お抹茶のあとには、少し深く炒った「いり番茶」のサービスもあった。
京言葉での対応も、なんだか嬉しい。

京都らしい、優しいおもてなしにほっとさせられた後、
帰路についた。





2013年12月8日日曜日

日本橋で、越川禮子さんの講演「江戸しぐさ」を聴く























12月というのに、日中はぽかぽかと暖かい日がつづく。
日本橋のたもとの大銀杏はまだまだ見事な黄色を保ってくれていた。


今日は、三越前のビル「YUITO」の5階ホールで、
越川禮子さんの講演「江戸しぐさ 商売繁盛の哲学」を聴いた。



 


会場に入ってこられた越川禮子さんは
明るい紫のスーツにブーツ、という姿。
よく通る張りのある声で話し始められた。

「あゝやっとお目にかかれた」。
越川禮子さんのご著書との出合いは10年くらい前のこと。
「江戸しぐさ」にはまりこみ、店舗での新人教育にも取り入れたことがある。
以来、「講演会があれば伺いたい」と思っていた。

年齢も知らないわけではなかった。
しかし改めてそのお姿を拝見すると、
「88歳ですよ」という言葉に、思わず感嘆の声をあげてしまった。
「トシを言わないと若く見られて損をしちゃう」のだそうだ。







1971年、越川さんは、マーケティングの視点から、
「超高齢社会をどう生きるか」というテーマでアメリカを取材した。
その結果が『グレイパンサー』という本にまとめられている。

しかし、アメリカで見つけた、この「共生の思想」が
もともと日本にあることを知り、夢中になっていく。

当時、芝三光(シバ・ミツアキラ)氏が伝承していた「江戸しぐさ」である。

「江戸しぐさ」は、口承によって各人が身につけていくものであり、
書くことによって安心してしまうことを芝氏は戒めている。
その芝氏から許しを得て、パワフルに書くこと、伝えることを続けてきた
越川先生のような存在なかったら、と考えると恐ろしい。
今でもすでに失われてしまった部分も多いのかもしれない。

「江戸しぐさ」は「商売繁盛の哲学」と言われるが、
江戸に住む町衆のほとんどが商人であったためにこのように伝えられる。
武士階級ではなく、一般の人々の間に備わっていた思想ともいえるものである。



「傘かしげ」「こぶし腰浮かせ」などで有名な、
公共広告機構によるマナー広告のポスターの絵が、
日本画家・山口晃氏によるものであるということを、
今日初めて知った。

山口晃さんのあの温かみのある絵!




















先頃、横浜美術館で開催された「横山大観展」で拝見し、
すっかりファンになり、本も買ってしまった。

あの巧みなつくりのポスターに注目が集まり、
一気に世の中に「江戸しぐさ」が広まったと言ってよい。
しかしまた、ポスターに使われたがために、
「江戸しぐさ」は単に江戸のマナーであるかのような誤解を生んで、
一過性のブームで終わったような気がし、残念でならない。


電車内でのマナーはますます悪くなっている、と嘆く声は多い。
再度、山口さんのポスターにはご登場いただけないものだろうか。
それとともに、多くの「江戸しぐさ講」をつくり、
江戸しぐさを語り継いでいかなければ、と思う。


江戸人が身につけていたこの思想を、
次の世代へと引き継ぐためには、もう一つ、大切なことがある。
越川先生ご自身が本日色紙に
「きっかけは江戸しぐさ、気がつけば陽明学」と書き、
「葉隠」の思想の中に共通点があることを見つけた、
と話もされたように、根幹となる思想をしっかりと押さえ、
この分野の研究を深く進めていくことだ。








日本橋という場所柄なのであろうか、
「着物割引」という制度が効果があるのか、
会場には着物姿の方が多かった。
そのことを越川先生も、とても喜んでくださった。
着物姿は会場の空気を変えると思う。



























会場入り口には、しつらえられた「冬至」の盛りもの。

大切にしたいものはいろいろある。
伝承のよさをつくづくと感じさせられた、日曜日の午後だった。




2013年12月7日土曜日

高田馬場・茶道会館「巧匠会・初冬の会」


高田馬場・茶道会館での巧匠会「初冬の会」。

この茶会に毎年参加するようになって4度目の冬である。

茶道会館では茶室の外に並ぶことも多いので、

お天気が大きく左右する。

そのため、その当日の気温は身体が覚えている。

今まで参加した3回に比べて、今年は本当に暖かい。





















今日は、少しゆっくりめに行ったので、

細川三斎流・亀井宗玄先生(峰春亭)と

小堀遠州流・小堀宗圓家元(山茶屋)の、

男性が席主の2席に入って、

時間切れになってしまった。

























お席に入った後で思った。

席主は気持ちが入った席づくりをされていたと思うが、

お客様側はいかがなものか。

今日の2席とも残念ながら、正客の席に座った方は、

ご挨拶もなく、席主から茶席の趣向を聞き出すこともなく、

時間が過ぎていった。

私が若い頃には、

「そうか。正客というのはああいうふうにやるんだ」と

思わせてくれる大人の人がいたように思う。
 
お正客を務めるからには、

席主のもてなしに応じるだけでなく、

自分の感覚でとらえたことを言葉にして、

その席主と正客ならではの場を作り出していきたい。

それが「一座建立」ということである、と

亡くなった石州流・伊藤宗和先生から教えられた。

正客がちゃんと務められる人になりたい。



私にとって、茶会の楽しみは、庭の自然、建築、そして着物。

待合で待っている時も、これを眺める楽しみがある。

この3つが同時に存在する空間は、本当に美しい眺めとなる。

今日も、その眺めを十分に満喫することができたのは幸せだった。
























巧匠会茶会での楽しみは、

茶道具の作り手たちの作品を見て直接にお話を聞けることである。

その中でも、陶芸家の伊藤麻沙人さんのお話が面白かった。

どうすれば、展示した茶碗や皿のような色や形が実現できるのかを、

わかりやすい言葉で語ってくれた。

心はずむ師走の午後の時間だった。




2013年12月1日日曜日

12月大歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』初日

















12月大歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』初日・昼の部を観にいく。

10時半開場、11時開演であるが、東銀座駅に着いたのは9時40分頃。

お店もまだ開いていないだろうと思いながら、目的の店、

歌舞伎座向かい側にある「木挽町 辨松 本店」へ行ってみると、

こういう日はやはり特別早くに開けるらしい。












10時前でもお弁当を買うことができた。












































お弁当とお茶を購入して、安堵。正面で写真などを撮っていると、

お稲荷さんの前で、神主さんのお祓いが始まり、

集まってきた人々は、浮き立つ心を抑えきれない、といった風情である。

始まる前のこの空気感。いいよね。

歌舞伎座の建物を前にすると余計に気持ちが高ぶってくる。

初日を祝うかのような快晴の空も気持ちよい。

あまりにもまだ時間があるので、地下の木挽町ひろばに行ってみると、

こちらのお店も10時からオープンしていて、

お土産を先に購入しようとする人々で混雑していた。




























お店を回った後、腰をかける場所などもあるけれど、

やはり、1階正面で観劇客の着物姿など眺めながら待つ方がよい。

エスカレーターで1階に上がる。



















今年は、私にとって歌舞伎元年ともいえる年で、毎月のように観ている。

新しい歌舞伎座も今日が5回目なので、

人込みを避けてすっすっと目的地に進むことができる気がする。

そのこともなんとなく気持ちがよい。

音声ガイドを借りる場所や筋書を買う場所、トイレの場所なども

頭に入っている。

開場から幕開きまで30分の間に、いろいろ済ませようとすると、

かなり忙しい。

一気に人が流れ込んだロビーでスムーズに動こうとするのは難しい。

音声ガイドは開場前に外で借り、筋書きは入ったらすぐに買う。

トイレも右側の階段をトントントンと降りて行けばすぐ。

今の歌舞伎座のトイレは長い行列ができていてもすぐにはける。

トイレの数が多いし、係員のさばき方がいい。

そこはとても気持ちよくなった。

お弁当も歌舞伎座内で買おうとするとじっくり選べないから、

周囲にもっとお店があるとよい。

開店時間が10時半になった銀座三越について、

地下のお弁当コーナーだけでも10時から開けるとよいのに、

という提案があったが、なるほど何回も歌舞伎座に来ている方は、

もっといろいろなお弁当を食べたい、という気持ちになるかもしれない。




今日、ご一緒したKさんは、途中でチケットを忘れたことに気づいて

家に一旦引き返されたという。

事故もなく、間に合ってよかった。

そういえば…と自分の過去の失敗を思い出した。

私は、新橋演舞場で劇場に来てからチケットがないことに気づいたことがある。

しかし、席の番号を覚えていたので、

受付で名前などを書類に書き込み、通してもらった。

あとから手元のチケットを劇場宛に送ることで許してもらえた。

自由席ではこうはいかないだろう。

ありがたかった。



会場内も、初日は着物姿が多いようだ。

もちろん私も着物にした。

ぴったりとはいかないけれど、演目や季節を考えて。

舞台の役者さんからも華やかな観客席の様子はよく見えるのだそうだ。

観客側の熱が役者に伝わることは間違いない。

今日は、桟敷席に舞妓さんの姿も見えた。


















11月の顔見世大歌舞伎も同じ演目『仮名手本忠臣蔵』だったが、

ベテランの揃う11月よりも12月の方がチケットの売れいきはよかったようだ。

売り出してすぐに完売になった模様である。




11月は、塩冶判官を菊五郎、桃井若狭之助を梅玉、高師直を吉右衛門が演じた。

12月は、それぞれ菊之助、染五郎、海老蔵、と若手3人が演じる。

11月は観ていないが、お父さんの塩冶判官と比べてみたかった。

非常に凛とした姿が美しい菊之助の判官であった。

手術後の三津五郎に代わって演じる海老蔵は師直は初役だという。

老け役を、少し滑稽味をまじえながらよく演じている。

3人が揃って見得を切る姿は、それぞれに上背があることもあり、見事だった。




大星由良之助役は幸四郎。若手の中に渋さを加えて引き締めていた。

しかし、この役も仁左衛門が演じるはずだった。

と考えると、病気で倒れる役者がつづいていることが心配である。

名優たちの姿がまた見られることを楽しみにしたい。




玉三郎、海老蔵の道行は、想像した通り、いやそれ以上の美しさ。

二人が踊りだすと、期待感からざわざわしていた観客席が水を打ったよう。

玉三郎にしか醸し出せないだろうと思われる可憐さを、抑えた動きの中に表していく。

やはりベテランの味。引き込まれる。

二人が花道に立ったところで、客席から、「お似合いですよ!」と声が飛ぶ。

この舞台も、海老蔵の飛躍のためにうんと役だったのではないだろうか。

新春の新橋演舞場の舞台も、楽しみである。