2015年2月28日土曜日

三軒茶屋・世田谷パブリックシアターで「藪原検校」を観る


世田谷パブリックシアターで、
井上ひさし作・栗山民也演出の「藪原検校(やぶはらけんぎょう)」を観た。

井上ひさしの戯曲は、演劇鑑賞に最近夢中のわが娘と共に、
昨年の9月新宿サザンシアターで初めて観た。
「きらめく星座」という芝居である。





















言葉の、これでもかこれでもかという積み重ねのうちに、
次第に井上ひさしワールドに引き込まれている。

その快感を再び味わいたくてたまらなくなった。
そして今日、再び娘と共に観る。

「藪原検校」の筋書きは何も知らず、なんの知識もなかったが、
あっという間にその時代、その世界に引き込まれていった。








































野村萬斎の演じる主人公・杉の市(二代目藪原検校)は、
彼以外にこの役をやることはむずかしいのではないか、と
思えるほどのはまり役だった。

杉の市は、悪行の限りを尽くして、最後は無残な死を遂げるが、
「処刑されてもやむをえない悪人だ」と思いながらも、
杉の市の死に自分自身もかかわったような辛い思いが重なる。

空間・脚本・役者etc.…素晴らしいエレメントが響きあう、
素晴らしい演劇体験ができた。





















世田谷パブリックシアターは、
東急世田谷線駅の上に建つキャロットタワーの3階にある。

キャロットタワーは今や三軒茶屋のランドマーク的存在。


























世田谷線の駅は、見違えるような空間になっていた。







































下高井戸から三軒茶屋をつなぐ世田谷線。
かつて利用していた際は緑色だったなぁ。
その頃は「タマデン」と呼ばれていた。

2両編成であることには変わりはないが、
ピンク、ブルー、イエローとカラフルな色合いになり、
思わず乗ってみたくなる楽しげな姿になっている。

街中をこうした電車が動いていく風景は、
思いがけない空間を創り出し、街を個性ある顔にする。
「どこへ行っても同じ」は、一番がっかりさせられる。







































駅周辺もとてもおしゃれになっていた。
13時半の芝居の前に、世田谷線改札口からすぐの「カフェマメヒコ」でランチ。






 
大豆ハンバーグのランチをいただく。
食と安全、食とアート、食とコミュニケーション、
食を中心にして、さまざまなコンプトを同時に発信している店だった。


















 
















芝居がはねてからは、時間は限られていたが、せっかくのチャンスと思い、
「江戸五色不動」のひとつ「目青不動」に立ち寄った。

三代将軍徳川家光が江戸府内の名ある不動尊を
目白、目赤、目黒、目青、目黄と指定したと伝えられている。
五色とは[目」の色ではなく、東西南北中央の五方角を示したものだそうだ。

「目青不動」は、現在は教学院(世田谷区太子堂4丁目)内にあるが、
もとは港区麻布谷町(現六本木)の勧行寺(または正善寺)にあった。
1882(明治15年)青山南町にあった教学院に移転。

教学院の創建は1311年。
初めは後に江戸城内となる紅葉山の位置にあったが、
江戸城築城により麹町に移され、その後も赤坂、青山と移転し、
1910(明治43年)三軒茶屋に移転したそうだ。




























 

境内で見つけた大きな頭を逆さにして咲く枝垂れ椿。

見事な大きさなのだが、自分の重さで逆さになってしまう椿の花。
舞台の中の杉の市の最後の姿と重なってしまった。





















芝居もよかったが、
久々の三軒茶屋周辺散策は懐かしさもあり、
楽しい時間だった。



2015年2月19日木曜日

3つの印象派展
























2月16日(月)、三菱一号館美術館で開催中(2/7~5/24)の
ワシントン・ナショナルギャラリー「私の印象派。」展を観た。

エイルサ・メロン(1901-1969)という一人のアメリカ人女性の眼を通して選ばれた
フランス印象派の小さな画面の絵画作品68点。

コレクションとしてまとめて観ることで、エイルサの優しい人柄や繊細な感性が
伝わってくると同時に、印象派と呼ばれる画家たちが生き生きと活動した時代の空気や
親密な交際のありようを感じさせてくれる内容だった。

19世紀末に生まれた「印象主義」の流れは、
20世紀のさまざまな芸術運動へとつながっていく。

今回の展覧会は、その一つの流れとして、「ナビ派」の、
その中でも「親密派」と呼ばれる画家たち、ボナールやヴュイヤールの作品を
数多く紹介することで、締めくくられていた。

「フランス的色彩」として憧れる深い色あいの組み合わせや装飾的な要素。
「親密派」の世界に、エイルサも惹かれていたのではないだろうか。
「私の印象派。」の、この幕引きのしかたにはとても共感できた。

「あなたはこの作品のどこに惹かれたの?」
「あなたはどの絵が好き?」
終始エイルサと言葉を交わしながら、会場を巡るような気持ちだった。



三菱一号館美術館は2010年にオープン。
第1回の展覧会「マネとモダン・パリ展」を観たときの興奮は今も鮮やかだ。
「こんな美術館がほしかった!」。

それからも、展覧会に足を運ぶたびに、
中庭の植栽に季節を感じ、建物の重厚さや落ち着いた雰囲気を楽しみ、
展覧会のかげにある企画力や工夫された展示方法に心を躍らせながら、
美術作品をたっぷりと味わっている。


























最近、美術館の活動を支援するサポーターとしての登録をしたため、
今日は「限定貸切鑑賞会」という時間内で、ゆっくりと鑑賞することができた。
期間中は、制限なく何回も友人一人を伴って来館することもできる。
最高にぜいたくで豊かな時間をプレゼントされた気分である。





 
 
 
2月17日(火)、横浜美術館で開催中(12/6~3/1)の「ホイッスラー展」へ。






































 
ホイッスラーは、つねづね不思議な画家だと思っていた。
印象派周辺の画家として紹介されるが、印象派とは区分されている。
 
油彩・水彩・版画約130点を集めた今回の大回顧展は、
彼の全貌を知る好機、と思い、出かけた。
 
ジェームズ・マクニール・ホイッスラー(1834-1903)は、
印象派のモネ(1840-1926)などと同時代の画家である。
 
しかし、フランスやその周辺諸国で生まれた、印象派の画家たちと違って、
アメリカで生まれ、9歳のとき父親の仕事の関係でロシアへ行き、そこからまた
アメリカへ。その後、ロンドンとパリ、それぞれを往ったり来たりして暮らしている。
 
そうした彼の経歴が、アカデミズムに対抗する反骨精神は同じように持ち合わせながらも、
同時代の画家たちとは群れない孤高の画家としての道を歩ませたように思う。
 
しかし、新しいものを生み出したいという思いにおいて、
対象に抱いた自分の印象を大きく走るような筆触にのせたという点で、
「広い意味での印象派」に組み入れることができるのではないだろうか。
 
 
(絵葉書「赤と黒:扇」)
 
 
批評家ラスキンとの裁判やパトロンの言いつけにそむいて室内装飾を
手がけてしまった事件などは、ホイッスラーという人の情熱的な人柄を
物語るエピソードだろう。
 
























 














2014年11月3日で開館25周年を迎えた横浜美術館。
丹下健三(1913-2005))設計の石造りのシンメトリーの建物は、
開館当時まだ何もなかったみなとみらい地区の中で、少し偉そうな顔をして
そびえ立っているように見えた。

しかし、周囲にたくさんの商業施設も増えた今では、
美術館は街の中心にあって街を見守るような役割へと成長しているように見える。
東京方面からも行きたくなるような魅力的な講演会活動をはじめ、
横浜市民のための各種の教育創作活動も活発に行われている。
これからの発展もまだまだ楽しみである。





























2月19日(木)、東京都美術館で、「新印象派展」(1/24-3/29)を観た。







































新印象派は、印象派のモネやピサロ等の用いた「筆触分割」という方法をさらに進め、
科学的研究も加えた「点描主義」の画家たち。

その作品約100点。12か国から集めたということだから、学芸員の努力がしのばれる。

スーラ、シニャック、リュスなどは新印象派としてよく知られた画家たちだが、
ベルギーの画家たちの間に広まり様々な展開を見せたこと、
スーラが31歳で早逝したあとシニャック中心に南フランスの地に集まり、
活動を始めたことなど、初めて知る新印象派の側面であった。

また、フォービスムの画家たち・マティスやドランの作品を
最後に掲げていることで、20世紀の美術へとつながる流れを
実感することができた展覧会であった。
















(絵葉書:アンドレ・ドラン「ウォータール橋」)





















































東京都美術館は、前川國男(1905-1986)の設計により1975年に完成。







































「トビカン(都美術館の愛称)のみどころ」というパンフレットが
出入口に置いてあることに、今回初めて気づいた。

Vol.2前川國男特集として、美術館を建築作品として楽しむための
手引きとなっている。
「前川建築を味わおう」という建築ツアーも企画され、
とびらー(アート・コミュニケータの愛称)が、
美術館を身近に感じてもらうための活動を行っているという。

最近、美術館はどこも、来館者と向かい合うための工夫を始めたらしい。
この変化は、私が美術館に通っている40年間のなかで、
ちょっと新しい、期待したくなる風である。

美術館は茶室に似て、設えた人の心に思いを馳せながら
できるだけたくさんのことを感じとれる、そんな空間であってほしい。

迎える側と楽しむ側との互いの呼吸が感じられるようになったとき、
美術館という空間も変わっていくのではないか。

そんなことを考えながら美術館を巡った1週間であった。




2015年2月10日火曜日

千葉県立美術館開館40周年記念特別企画展「平山郁夫展」


昭和49(1974)年10月に開館した千葉県立美術館。
建物の老朽化にともなう耐震改修工事のために、
平成25年1月から約2年間閉館していたが、ようやく工事が終わり、
開館40周年を祝う特別記念展「平山郁夫展-仏教伝来の軌跡、そして平和の祈り-」
(1/24-3/22)が始まった。
まだ、訪ねたことのない美術館に、同展を観に行った。

八千代緑が丘から西船橋へ出て、JR武蔵野線で南船橋へ。
そこからJR京葉線で5駅目の千葉みなと駅。
初めて降りる駅である。




















西口を出て、左方向に進むと、
ホテルオークラ千葉の建物が正面に迫り、
大通り(臨港プロムナード)にぶつかる。

















そこから右方向(千葉中央港の方向)へ。
千葉ポートタワーを見ながらしばらく幅広い歩道を歩いた。
大きく育った街路樹が枝を伸ばす。
その木陰を歩くのが、気持ちよかった。




















千葉中央郵便局前の歩道の様子。
木々の枝が歩道に面白く影を落としている。






























どんな美術館が現れるのだろう。
わくわくしてきた。























大きな郵便局の建物の前を過ぎると、視界が開けて突然美術館が現れた。




























 
広々とした敷地を使ってひろがる建物。
こののびのび感は、埋立地の利用のたまものであろう。

美術館の建築について質問したところ、
「東京都美術館と同じ頃に建てられ、よく比較されるのですよ」
と、美術館受付のスタッフの方が教えてくれた。

確かに、外壁のタイルの色や方形のモチーフを連ねたような外観に
関連性を感じる。

上野にある東京都美術館は1975年、前川國男(1905-1986)の設計。
こちらは1974年、大高正人(1923-2010)の設計。
大高正人は1949~1962年前川國男建築事務所にいて、その後独立した。
子弟関係があったということが、あとで調べてみてわかった。
































展覧会は、滋賀県守山市の佐川美術館の所蔵品を中心に、
本画や素描など約90点から構成されていた。

シルクロード・仏教伝来をテーマとして描き続けた日本画家・平山郁夫(1930~2009)。

郷里の瀬戸内海・大三島に、開館したばかりの平山郁夫美術館を訪ねた懐かしい思い出がある。
生前ご活躍中には作品をたくさん拝見してきたが、
亡くなられたあと、こうした大きな規模の展覧会を観るのは今日が初めてである。

悠久の時が流れるシルクロードの自然や遺跡。
京都や奈良に遺された日本の美。
それらを見つめつづけ、1枚1枚を描くたびに重ねられてきた思いが、
強い「平和への祈り」となって、一気にこちらに伝わってくるようだった。

アフガニスタンのバーミヤン石仏の破壊は
私たちにとっても忘れられないショッキングな出来事であり、
今も、崩れ落ちる大きな石の仏像の映像が目に焼き付いている。

あの事件以降とくに、世界の文化財保護への活動に
心血を注いでこられたことも忘れられない。

「遺跡を守ることは人の心を守ることである」という言葉が心にのこる。

若き日の被爆体験と、遺された歴史と文化の大切さを肌で感じてこられた
平山郁夫さんだからこそのお仕事ぶりだったと思う。



































平山郁夫さんが亡くなったいま、その思いをつなぐのは誰なのか。
こうして展覧会を観たものが少しでも、その意志を継ぐ方向へと
足を踏み出さなければならないのではないか。

帰る道々、そんな思いが膨らんできた。



美術館を出たのは16時半。
乗り替えの南船橋駅には、うっすらと夕闇が迫っていた。

















(JR京葉線)






















(JR武蔵野線)






2015年2月3日火曜日

<東葉高速線沿線さんぽ> 高津比咩神社と観音寺


この可愛らしいクッキーは、
パティスリー「ラ・シエスト」(八千代市緑が丘3-7-4)のもの。

モデルは、高津姫。平安初期の貴族・藤原時平の娘である。




















クッキーのパッケージに書かれた説明を読むと・・・。

藤原時平は、政敵・菅原道真を901年に大宰府へと左遷した人物。
しかし、その2年後道真が亡くなると、京の都は落雷や疫病にみまわれ、
人々は道真の祟りと恐れた。時平も早逝する。
時平の奥方と娘は、祟りを恐れて、舟で遠く下総の地までやってくる。
高津に移り住んだ姫は、人々に慕われた。
亡くなったあと、お墓のある場所に神社が建てられたとのことである。





















数日前、この高津姫クッキーに出合い、
姫を祀った「高津比咩神社」を地図で探しだすことができた。

そして「今日こそはお姫様に会いに行くぞ」という気持ちで出かけた。

八千代緑が丘駅前から、京成本線・八千代台駅行きのバスに乗り、
公園都市通りから広大な高津団地内を通り過ぎていく。
「高津小学校」「大門入口」「高津団地入口」「高津川」「高津石橋」
と、バス停が続き、この辺か?とバスを降りる。

地図を見ていた時は気づかなかったが、「高津川」という川があるのだ。
橋が見つかれば、それを渡れば、神社はすぐに見つかるだろう、と思った。

川も橋も、コンクリートづくめで、少しがっかりだったが、
その先に急に現れた豪農の家並みには、圧倒された。























立派な瓦屋根の家々の間に参道らしき道が見え、
緩やかな上り坂を行くと、背の高い木立に囲まれるようにして、
鳥居が見えてきた。
高津比咩神社である。



 





































小ぶりな鳥居だが、
木造の鳥居の前に石の鳥居があり、二重になっている。




























拝殿も小さいが、しゃれた感じがある。


 

細部の装飾は繊細で瀟洒で、京文化の香りがするようだ。

 


















石灯籠や狛犬もどこか「女性」を感じさせる柔らかな姿である。



























拝殿の奥にある本殿は、囲まれていてよく見えなかったが、
カメラを差し入れて写真を撮ってみると、
立派な浮彫が施されていた。






























空高く伸びた枝に紅い花をつけて、まるでお姫様を見守るかのように、
椿の木が凛とした風情で立っている。







































上へ上へと気持ちよく伸びる木立が天井をつくり、
一帯を別世界にしていた。





























































お姫様が昔も今も人々に大事にされていることが伝わってくる。

今日は節分なので、豆を入れた升を持って近隣の方が訪れ、
拝むときに拝殿の前にぱらぱらと豆をまいていかれた。

拝殿の中からは「雅楽」の音が(テープなのかもしれないが)、
切れることなく流れつづけていた。

ちょうど神社の裏側にあたる地に立つ観音寺には
姫が都から大事に持ってきた十一面観音が納められているという。
寺の火事で焼失してしまったので、
いまは後世のつくりのものだそうだが。











 
帰りは、バスで来た道を歩いて戻った。
写真を撮りながらだったので八千代緑が丘駅まで30分以上かかった。





















途中、「ラ・シエスト」の前を通る。
今年の5月でオープン2年を迎える、まだ新しい店である。

それにしても、子供たちにも親しんでもらえるクッキーという形に仕立て、
地域の文化を伝える姿勢は素晴らしい!
心の中で拍手を送った。