赤坂見附の駅を降りると、
駅ビルや駅周辺の商店街の変わりように驚く。
街が、その役割やそこに住む人たちの要望によって、
変わっていくのは仕方がないことだ。
だから、その変容を、できるだけ受け止めたいと思い、
古い街も新しい街も、美しいカタチは写真に納めてきた。
しかし今日は、歩きはじめてシャッターを押したいと
思う瞬間がなかなか見つからなかった。
ようやく、撮りたいと思う店に出合った。
「コヒア アラビカ」である。
赤坂の街に残っている、いまは数少ない職人堅気の店である。
46年間、赤坂で営業し続けているという。
入り口からすぐ始まる階段を降りていく。
店は地下にある。
磨きこまれたこの木製の階段を、たくさんの人がいろいろな思いを抱え、
通ったにちがいない。
メニューはコーヒーのみ。
食事を済ませて立ち寄った私たちに、
マスターが勧めてくれたのは「ウィンナーコーヒー」。
ほんのり甘いコーヒーは
食後の一杯として、確かに、満足感が大きかった。
ゆっくり飲みたいと思ったが、
美味しくてすぐに飲みほしてしまい、
次は、迷ったすえに「モカ・マタリ」を注文した。
浅く炒った白っぽい豆でいれてくれるコーヒーの
香りや味には独特のさわやかさがあった。
人生の半ばを過ぎた齢の仲間たちはコーヒーに酔いながら、
ここ赤坂という場所で新しい文化を吸収した、
若かりし頃の話に花を咲かせた。
同年代のマスターもいつの間にか話の輪に加わっていた。
Kさんは、草履を買うのはいつも赤坂。
足に合わせてすぐに鼻緒をすげてくれたという。
懐かしそうだった。
赤坂見附駅で降りるのは、
ほとんどサントリー美術館行くときに限られていた…。
そんな学生時代、私にとっては、赤坂と言えば大人の街。
敷居が高かった。
あれから、何度も足を運んでいるけれど、
今日ほど大きく落胆を感じた日はない。
『東京江戸歩き』(文春文庫)の
文庫版あとがきのなかで、
ニューヨーク滞在の経験から、
著者の山本一力がこう語っている。
(ニューヨークの)摩天楼の谷間では、
いまも個人商店が商いを達者に続けている。
変化も激しいが、時の流れなど屁でもないと言わぬばかりに、
微動だにせぬ個人商店が、なんと多いことか。
江戸の興りは、ニューヨークとまったく同じ「移民」にある。
徳川家康は慶長8(1603)年に江戸幕府を開いた。
そして諸国から大名を江戸に呼び集めた。
大名は家臣のみならず、職人や商人、
ときには農夫や漁師まで引き連れて江戸に出た。
膨大な人数の移民が大名の領地から江戸に移住した。
そしてお国文化を競い合った。
ニューヨークも同じ道筋を歩み、
諸国の文化がマンハッタン島を中心に深く根付いた。
大型アイロンが蒸気を噴き出すクリーニング屋。
あるじは中国系にしか見えないのに、
「チャオ」とラテン系のあいさつをくれる。
この息吹が、かつては東京にもあった。
いや、数が少ないがいまもある。
自分たちの町に店を残すのも。
住んでいる町を生き残らせるのも。
どちらも、その地に暮らす住人の心意気である。
もうこれ以上、町から商店街や個人商店が失せるのは、
断じて御免だ。
赤坂を歩いて、同じことを感じた。
一人ひとりの顏が違うように、
一つひとつの店には、個性的な品や技やもてなし方で
訪れる人たちを出迎えてもらいたい。
どちらも、その地に暮らす住人の心意気である。
もうこれ以上、町から商店街や個人商店が失せるのは、
断じて御免だ。
赤坂を歩いて、同じことを感じた。
一人ひとりの顏が違うように、
一つひとつの店には、個性的な品や技やもてなし方で
訪れる人たちを出迎えてもらいたい。
個性的な店は個性的な街をつくり、
街は人を元気にする。
没個性的でばらばらな印象の街は悲しい。
「コヒア アラビカ」のような店は他にもまだ残っているはずだ。
そうした店を起点にして、新しい、でも赤坂らしい息吹きが生まれ、
広がっていくことを信じたい。
そうした店を起点にして、新しい、でも赤坂らしい息吹きが生まれ、
広がっていくことを信じたい。
なぜなら…
街のありようは人々の心を映しだすものだから。
このままであってはならない、
という思いが重なり合い、変わっていってほしい。
街のありようは人々の心を映しだすものだから。
このままであってはならない、
という思いが重なり合い、変わっていってほしい。
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