文京区目白台にある「永青文庫」へ行った。
目白通りから胸突坂方面へ、道を曲がると、
右手には「和敬塾」の、左手には「野間記念館」「焦雨園」の、
緑が敷地からこぼれ出るように美しく、
まるで別世界への入り口であるかのよう。
その少し先にある永青文庫。
ここは、旧熊本藩主細川家伝来の文化財と16代当主・護立のコレクションを
収蔵・展示している美術館。
門を入ると、緑生い茂るなかに、昭和2年築のレトロな建物があらわれる。
細川三斎は、「七哲」と呼ばれた7人の千利休の弟子のひとり。
重要美術品たちが並んでいる。
三斎の所持した品々が、今もその子孫の手により大切に管理され、
こうして一般公開されているなんてよく考えるとすごいことだ!
初代・幽斎(藤孝)からもう700余年を経ている。
三斎(忠興)は、3代。
明智光秀の娘、玉(ガラシャ夫人)を妻としたことでも名を知られている。
武人であり、美意識の高い人物。
庭に出ると、また別世界への入り口が待っていた。
「新江戸川公園」へつながる門がこの先にあった。
「新江戸川公園」は、今は文京区の公園になっているが、
もとは細川家下屋敷の回遊式泉水庭園である。
こちら側は神田川沿いの道から入る門。
園内は、地形の起伏を生かして作庭されている。
園内の「松声閣」は細川家の学問所だった建物。
現在のものは、大正時代の築で、今は老朽化のため使用されていない。
つい最近まで、茶会などが開催されていたように聞くが…。
「和敬塾」「永青文庫」「新江戸川公園」、この3つは、現在は所有が別々であるが、
もともと広大な細川家の下屋敷だった。
普段は非公開だが、「和敬塾」敷地内には、1926年築の洋館(旧細川侯爵邸)も
あるという。別の機会にぜひ見学をしてみたい。
胸突坂を挟んで、向こう側にある「焦雨園」「関口芭蕉庵」「椿山荘」。
こちらは、江戸時代には「上総久留里藩(今の君津市あたり)」の
黒田家下屋敷であったという。
胸突坂は、かつては屋敷と屋敷の境界でもあったのだ。
住所も、文京区関口になる。
「焦雨園」内には、明治期に宮内大臣を務めた田中光顕(たなかみつあき)の
邸宅(1897年築)があるが、普段は非公開で門を閉じている。
茶会や呉服展示会、ロケなどの折には使っている。
西洋建築が流行ったこの時期に、田中光顕はあえて純和風建築を望んだそうだ。
思い出すのが、昨年訪ねた小田原文学館である。
洋館はゲストハウスに、和館は私的な住まいに使われたという。
小田原の写真を参考に載せておきたい。
(小田原文学館 洋館と和館 撮影:2012/08/16)
坂本龍馬らとともに土佐勤王党として動き、
維新後には明治政府幕閣として引き立てられた光顕。
長生きし、晩年、小田原に移り住む。
南国の日差しを感じさせるような小ぶりな洋館と
自然の中になじんだ質素な姿の和館。
そのたたずまいから、光顕の思いがひしひしと伝わってくるようだった。
(神田川側から見上げた胸突坂 撮影:2012/07/04)
胸突坂を下る途中左手にあるのが「関口芭蕉庵」入口。
下まで降りて、神田川沿いに立派な正門があるが、こちらは閉じている。
緑がとても深い。
他の庭園から比べれば小ぶりながら、
たくさんの種類の植物が身を寄せ合って、豊かな庭だ。
故郷の伊賀上野から江戸に出てきた芭蕉が、
神田川改修工事に携わった時に住んだ場所として、
芭蕉ファンの人々から今も大切にされている。
ホテル椿山荘の庭は無料で開放されている。
神田川沿いの冠木門(かぶきもん)から入れば、
きれいに整備された庭園の眺めはさすが。
ここは、明治時代には、長州出身の軍人であり政治家でもあった、
山縣有朋(やまがたありとも)の屋敷だった。
江戸時代やそれ以前は、椿が自生する「つばきやま」と呼ばれた
景勝地であった。
有朋は私財を投じて、広大な庭園を整備し、「椿山荘(ちんざんそう)」と名付けた。
庭園散策の途中のランチは、園内の蕎麦屋「無茶庵」を
お勧めしたい。
美しい庭を遺してくれた山縣有朋。
日本美を深く愛した田中光顕。
二人に感謝。
二人は親友だったという。今は、ともに護国寺に眠る。
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