大江戸線・牛込神楽坂で下車し、
A2出口から地上へ出ると、正面には大久保通り。
後ろを振り返ると、曲がりくねった坂道が続いている。
その急な坂道を上り終えると、
そこからは平らな台地がひろがり、
定規を使って引かれた線のような道が、
縦にもにも横にもひろがっている不思議な光景に出合う。
ここは、戦国時代に築かれた「牛込城」跡。
そのことを初めて知ったのは
2008年、(日傘をさしていたので)夏だったと思う、
街の古老として有名だった水野さんに牛込城跡を案内していただいた時である。
北町、中町、南町という名に合わせて、
道が平行に並んでいる。
牛込氏が城郭を築く際につくった通路が
そのまま今も道となって使われている、という説明であった。
今日訪ねる「宮城道雄記念館」は、
新宿区中町(かつての表示は牛込中町)にある。
偉大な筝曲演奏家であり、作曲家である、宮城道雄が晩年まで住んだ敷地に、
昭和53(1978)年に、日本で最初の、音楽家の記念館がオープンした。
先日(3月7日)に、資料室長・千葉さんと事務局長・牧瀬さんから
今年は宮城道雄生誕120年に当たること、
その生い立ちや西洋的な作曲法のこと等、詳しくお話を伺う機会があり、
改めてその偉業について知りたいという思いで、
今日は足を運んだ。
宮城が考案した「八十絃」という大きな箏を見るだけでも
その天才ぶりがしのばれる。
書斎として使われていた「検校(けんぎょう)の間」(昭和23年築)は、
展示室を出て、記念館の裏側の庭に保存されている。
国の登録有形文化財である。
庭で、穏やかな微笑みをうかべる胸像は、朝倉文夫作。
宮城は9才から視力を失った人生を送るが、
彼の作った曲(「春の海」などまさにそうだが)を聴いていると、
自然の姿が目の前に浮かび上がってくる。
見えていた幼い頃に脳裏に焼き付いたものが、
彼の中にはずっと残っていたのだろうか。
書斎近くに立つ石の達磨大師像。
手で触れてその感触をよく楽しんだという。
記念館の創立者・宮城喜代子(宮城道雄の姪、のちに養女となる)の
記念室へと続く門をくぐり、建物の中から庭を眺めた。
庭の枝垂れ梅はもう盛りを過ぎていたが、
まだ少し白い花びらを残し、最後の姿を楽しむことができた。
2010年2月、初めてこの記念館にきたときは、梅の真っ盛りの時期。
その後、いろいろあって、神楽坂から銀座に職場を変えることになる。
私にとっては、まさに人生の転換期だった。
だとしたら、今日はその「御礼参り」と言ってもいい。
心静かに自分を見つめるひとときを与えてくれた、
この庭には感謝していたから。
宮城は優れた演奏家、作曲家でもあった上に、随筆家としての才能もあったという。
千葉さんが、随筆の一節を読んで紹介してくださったが、
聴いていると、曲と同様に、視覚的な情景が浮かび上がってくる。
1956年、62才という年齢で、不慮の事故により亡くなった、ということが
改めて日本にとっての大きな損失であったと思われ、
残念でならない。
帰り道、光照寺にも立ち寄る。
境内に入る手前には「新宿区登録史跡・牛込城跡」の説明がある。
光照寺一帯は、戦国時代にこの地域の領主であった、
牛込氏の居城があったところである。
赤城山の麓上野国(群馬県)勢多郡大胡(おおご)の領主であった
大胡重行が南関東に移り、北条氏の家臣となり、
その子勝行が姓を牛込氏と改め、赤坂・桜田・日比谷を領有したが、
1590年北条氏滅亡後は徳川家康に従い、牛込城は取り壊された。
現在の光照寺は1645年に神田から移転したものである。
境内には、新宿区登録文化財「諸国旅人供養碑(しょこくりょにんくようひ)」
「便々館湖鯉鮒(べんべんかんこりう・連歌師)の墓」がある。
光照寺へのお参りを済ませ、地蔵坂を下る。
この「地蔵坂」という名も、
光照寺に安置されている「木造地蔵菩薩坐像」に因むそうである。
坂の上の「出版クラブ記念館」の前にその説明があり、
光照寺境内に地蔵菩薩の写真と説明があった。
13世紀鎌倉時代に造られ、近江国三井寺にあった像が、
江戸時代に増上寺を経て、増上寺の末寺であった光照寺に移され、
「安産子育地蔵」として信仰を集めた。
いまは、新宿指定有形文化財である、
像高31㎝のこの像、機会があれば拝観してみたいものである。
神楽坂通りへ出る。
夕闇が迫っていた。東西線の神楽坂駅へ向かった。
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