午前10時に、日本橋の橋のたもとに集合。
今年4月から、9才上の高校の先輩たちが集まって歩く
「古道を歩く会」に参加している。
今日のテーマは、「日光街道を歩く、日本橋~北千住」。
「日本橋」のたもとから出発し、人形町、馬喰町を経て、浅草橋へ。
そこから、浅草、吉原界隈を目指すが、
その前に立ち寄る予定の、柳橋は以前からとても気になっていた場所である。
柳橋は、「柳橋芸者」という言葉でも知られるが、
江戸の頃には新橋などと並ぶ「花街(かがい)」だった場所である。
もっとも、新橋の位置はわかっても、
柳橋が東京のどのあたりかを言える人は少ないだろう。
今回、柳橋の場所を足と目で確かめられる。
期待が高まった。
「柳橋」にたどり着いた。
神田川にかかる「浅草橋」、その次の橋が「柳橋」。
その界隈のことを、かつて江戸の人は親しみをこめて柳橋、と呼んだ。
私達が「新宿」とか「銀座」と言うような感覚だったのではないだろうか。
「柳橋」の上から、神田川上流方向を眺める。
橋の上から下流方向を眺めると、もう目前が隅田川である。
神田川の流れがTの字にぶつかっている。
「柳橋」とは神田川にかかる、最後の橋のことだった。
井の頭公園から湧き出した流れが、 神田川として隅田川までたどり着く。
その合流地点を見守っているのが「柳橋」なのである。
水路を利用して、人も荷も運んだ江戸時代には、
この界隈は交通の要所として、人の行き来も多く、栄えたのだろう。
江戸を感じさせる建物を目で探すが、
残念ながら、今はもう昔を偲ぶよすがはほとんど見つからなかった。
かろうじて見つかった光景をカメラに収めた。
浅草橋へ戻り、そこから隅田川をさかのぼるような形で北へ、
浅草方面をめざして歩き出す。
人形の「吉徳」などが並ぶ大通り「江戸通り」は、
江戸の頃には、浅草への初詣の人々で、
ぎっしりと埋め尽くされたという。
江戸通りの一本裏通りには、ひっそりと「銀杏岡八幡」が構え、
ここが古くから栄えた場所であることを物語っている。
昔のことを知っているのか、境内の椿にもなんだか風格を感じる。
再び、大通りをいく。
「駒形どぜう」の前を通る。
隅田川の「吾妻橋」では、アサヒビール本社のおなじみの光景が見えた。
この頃から、雲いきが怪しくなってきた。
天気予報があたってしまったらしい。
浅草寺近くで昼食をとり、そのあと浅草寺境内を抜けて、
浅草神社を経て、再び大通りに戻り北へと進んだ。
「山谷堀公園」という、堀を埋め立てて公園となっている場所を歩き、
かつての吉原の地へ入る。
今は、その地名も名前を変えて、千束という住所になっている。
隅田川から山谷堀を通り猪牙船(ちょきぶね)で入るのも、
吉原へ行く一つのコースであったという。
昔は華やかさもあっただろうが、
今はネオンのどぎつい色で飾られていても、
どこかウソっぽく、ただただうら寂しい。
行きどころのない遊女たちの魂が漂っているかのようだ。
南千住へたどり着いた時、雨と風がひどくなってきた。
ここは小塚原の処刑場があった場所で、
延命寺境内にはその菩提を弔う地蔵菩薩像がある。
隣接する回向院には、
幕末の安政の大獄で命を落とした人々の墓が並んでいた。
今日はこれ以上歩くことは断念して、
先輩たちと別れた。
寒かったのは、雨と風のせいだけではないだろう。
歴史の流れの中には、
芸術のような美しいものも生まれているが、
多くの恐ろしいものこわいものもある。
たとえ見たくはないものであっても、
やり過ごしてしまってはならないのではないか、
と思う。
それらは、人間のおろかさというものを教えてくれるから。
南千住から北千住までは、
「いつかまた、晴れた日に歩いてみよう」
と思った。
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