映画『利休にたずねよ』は、
市川海老蔵が利休を演じると聞いたときから、
楽しみにしていたので、公開と同時に観に行った。
30代の海老蔵が、70歳の老いた利休も巧みに演じている。
前半は、言葉の重々しさと所作の美しさが息苦しいほどであった。
打って変わって後半は、10代の瑞々しく野性的な利休を
海老蔵が活き活きと演じている。
高麗の女人のために、市場で素材を買い求め、
自ら料理する場面(ここは原作にはない)など、
恋する若者の一途さが伝わってきた。
前半と後半、その双方が響きあって、
この映画の映画としてのおもしろみが出てくる。
少し前に読んでいた原作が頭に残っていたので、
ストーリー展開はわかっていたが、
原作が与えてくれた利休像よりもさらに新しい利休像が、
映画によって誕生した、と言っていいかもしれない。
映画を見終わったあと、
どうしても原作をまた読み直してみたくなった。
再読し始めると、映画によって輪郭付けされた登場人物たちが
活き活きと動き出し、最初から最後まで一気に読めた。
時代を前へ後へと行き来し、その都度語る主人公を取り換えていく、
斬新な小説の手法(非常に巧みな職人技に驚かされた)に、
初めて読んだときには気をとられてしまい、
全体が一つにならなかったような気がする。
それとも、通勤電車の中で、細切れに読んだせいだろうか。
映画においては、緻密に書かれた原作の端々をばっさりと切ったり、
全く違う行動を登場人物に選ばせたり、潔いシンプルな展開になっている。
その方が自然なのかもしれない、と思わせる。
脚本家の才覚だろうか。
そんなことを考えているうちに、もう一度映画を観たくなった。
二度目の映画を見て、思い浮かんだのは、
茶室とは、祈りや鎮魂の空間なのではないか、ということ。
若かりし日、情熱的な恋をした利休だったからこそ、
その後、美に対する感覚を磨き、空間を非日常へと昇華させることが
できたように思う。
亡くなった人を、その人に対する強い情念によって
招くことができるのが、利休の茶室であったのだ…。
原作、映画、原作、映画と繰り返したおかげで、
少し深い世界に遊ぶことができたのではないか、と自己満足をしている。
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