2013年11月8日金曜日

根岸の里散歩(3)・お行の松


今日は、地下鉄日比谷線「三ノ輪」の駅で降り、
根岸・西蔵院まで歩いてみることにした。

日比谷線「三ノ輪」の次は、「南千住」「北千住」と続く。

千住といえば、隅田川にかかる「千住大橋」を思い出す。
広重の『名所江戸百景』には、
遠く奥州や日光へ向かう旅の始まりを感じさせる、
情緒たっぷり画面の中に橋の姿が描きこまれていて、印象的である。

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お江戸日本橋から千住への道は、
また改めて機会を設けて歩いてみたいと思う。


江戸期へ思いを馳せながら、「三ノ輪」で下車し、
3番出口から地上に出て、驚く。
そこは、昭和通りと明治通りの交差点にあたり、
大型ダンプカーが、私の妄想をかき消すように目の前を通り過ぎていく。
ぼんやり歩いていると危険かもしれない。

気を取り直し、根岸方向に向かって歩いていく。



途中「金太郎飴本店」に立ち寄った。

































同じなようで同じではない顔の図柄。手作りの可愛らしさがたまらない。


















根岸5丁目から4丁目を通り、3丁目の西蔵院まで歩くのが
今日のコースである。

「金太郎飴本店」の先を右に折れ、裏道に入る。

ここ根岸5丁目には、
江戸期の絵師・酒井抱一が住んでいたという。

この辺りか?というところはちょうど工事中で、
立札もなにもなく、しばらくぐるぐると付近を歩き回ったあと、
何も形跡を認められないままそこを後にした。

蔦に覆われた金曾木小学校(創立110周年)の建物を横目で見ながら、
抱一が書いた幟旗があるという石稲荷神社を過ぎると、
かつての「音無川」が、今は地下の暗渠として流れる小路らしきところに、
行き合う。

左へ進めば西蔵院の方向であろうと、
大体目鼻を付けて進むが、
小路はクランクのように折れ曲がり、また途中同じような小路と交差し、
音無川の上を歩いていく、という私の試みは、
成功したのかどうか…よくわからない。

が、ともかく間もなく見えてきたのは、西蔵院近くの景色。
「お行(ぎょう)の松」がある「不動堂」の場所にたどり着いた。

大松は音無川のほとりに立ち、
ここにはかつて「呉竹橋」という橋がかかっていた、という。






























松のそばに立つ説明書きには下記のようにあった。

江戸期から、「根岸の大松」と人々に親しまれ、
『江戸名所図会』や広重の錦絵にも描かれた名松。
現在の松はその三代目である。

初代の松は、大正15年に天然記念物の指定を受けた。
当時、高さ13、63メートル、幹の周囲4、09メートル、
樹齢350年と推定された。

枝は大きな傘を広げたようで、
遠くからもその姿が確認できたという。

しかし、天災や環境悪化のため昭和3年に枯死。
同5年に伐採した。
二代目の松は、昭和31年に上野中学校敷地内から
移植したが、これも枯死してしまい、
昭和51年8月、三代目の松を植えた。

戦後、初代の松の根を土中より堀り出して保存し、
不動堂の中にこの根の一部で彫った不動明王像をまつり、
西蔵院と地元の不動講の人々によって護持されている。

御行の松の名の由来に定説はないが、
一説には松の下で寛永寺門主輪王寺宮が行法を修したから
ともいわれる。また、この地を時雨が岡といったところから、
別名「時雨の松」とも呼ばれた。



不動堂から目と鼻の先にある和菓子店「竹隆庵岡埜」の包み紙にも、
「根岸・お行の松」の姿が描かれている。

































明治期に根岸2丁目に住んだ(今もその跡が「子規庵」として残る)、
正岡子規の句がある。

町中を 小川流るる 柳かな  (明治27年)


小川とは、音無川のことだろう。
埋められてしまった、その流れを取り戻すことは
もうできないのだろうか。

震災や戦災を経たのち、
すっかりコンクリートで固められてしまった街並み。

水の流れとその周辺に茂る草木の姿を、
今はもう、目を閉じて思い描いてみるしかない。




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