11月中旬、根岸の「西蔵院」茶室・望城亭で
お抹茶席を持たせていただくことになっている。
(写真撮影:2013/09/19)
呉服問屋さんの展示会の添え釜であるので、
本格的なお茶会のお席ではないが、
自宅やお稽古場以外では初めての席主役である。
多くの人の力をお借りしなければできないことであるし、
お客様に本当に喜んでいただける席づくりをしたい、など
いろいろ考えていると、日が近づいてくるにしたがって、
緊張感が高まってくる。
茶席づくりでまず大事なことはテーマであろう。
季節や今回のイベント内容との連動、
お客様に喜ばれること、
会場やその地域にあったもの、
などなど、条件や情報を自分の中に取り込み、
茶席の中につくりあげたい世界を考えてみる。
道具とにらめっこしていても、
なかなか想像の世界は広がっていかない。
現地へ出向いて、刺激を受けるのがよいかもしれない。
すでに夕闇が迫っていたが、
今日は日比谷線の入谷駅から
根岸の里へ入ってみることにした
(前回9/19はJR鶯谷駅から行った)。
地下鉄入谷駅に降り、出口2を出ると、
「言問通り」と「昭和通り」の交差点、入谷交差点の角に立つ。
「言問通り」を横断し、「鬼子母神」側へ渡りつく前に、
並んで2つの碑が立っていることに気づき、近づいて確かめた。
「入谷朝顔発祥之地碑」。
江戸末期、このあたりは朝顔づくりが盛んだったといわれる。
今も、毎年7月に行われる朝顔市は有名である。
「入谷乾山窯元之碑」。
尾形光琳(1658-1716)の弟であり、陶工・絵師として有名な
尾形乾山(1663-1743)が江戸の地にも窯をつくったのが
この場所であったとは!
京都が活躍の場所であったとばかり思っていた乾山であるが、
調べてみると、1731年(69才)でこの地へ移り住み、
亡くなるのも江戸。お墓は巣鴨の善養寺にあるといわれる。
入谷で作られた陶器は「入谷乾山」と呼ばれ、
珍重されているそうだ。
入谷といえば「恐れ入谷の鬼子母神」で有名な、真源寺。
交差点を渡り右へ進むとすぐ、
言問通りに面して「真源寺」の門があった。
塀の上から覗いているのはザクロの木だ。
赤い実が見える。
鬼子母神像はザクロを持物としている姿だという。
いつご開帳なのだろうか。
門の左手には入谷七福神の一つ「福禄寿」の像がまつられていた。
なんとなく子供のような愛らしい老人の姿である。
今度は朝顔市のときに来てみたい。
この地の朝顔を多くの江戸の画家たちが描いている。
そのなかの一人、酒井抱一(1761-1828)も
ここ根岸の地(かつては下谷金杉大塚村)に
終の棲家「雨華庵」をつくり、暮らしていた(1809~)。
根岸5丁目の庵があった場所には
今は全く別の建物があり、
住居跡であることを示す説明板が立てられているらしい。
抱一は、江戸琳派の祖と呼ばれ、
鈴木其一はじめ多くの弟子に教えている。
琳派といえば、
①俵屋宗達・本阿弥光悦~②光琳・乾山~③抱一~④其一
とつながっているもの、と単純に覚えていたが、
①と②、②と③のは、生没年を見ても全く重なっていない。
つまり、師と弟子として交わったことはなかったのだ。
にもかかわらず、
抱一の光琳・乾山兄弟に対する敬愛の念は強く、
光琳の百回忌を行い『光琳百図』を編集出版。
乾山の墓に碑を立て『乾山遺墨』を出す。
遺された光琳・乾山の作品が、抱一という絵師を育て、
抱一の出版によって、光琳・乾山芸術が後世に伝えられていく。
姫路藩酒井家の二男に生まれ、出家したものの、
財力のバックアップは続いたのかもしれないが、
直接教えられたこともない師匠に対し、
ここまで傾倒するとは、
常人ではない。
そういう抱一の生きた場所としての根岸を
少しでも茶席で共有できれば、という思いになってきた。
そんなことを考えながら、「金杉通り」から「柳通り」へ入る。
両側に柳が植えられ
道が柔らかくカーブしていて、歩いていて気持ちがよい。
この先の「うぐいす通り」にぶつかる角にある
和菓子屋さんへ行くためには他にも行き方はあるが、
ここを通ることにした。
ちょっと気になるお店もある。
洋食「香味屋(かみや)」、季節料理「さつき」、釜飯「たちばな」など。
あとで昭和30年からこの「柳通り」で営業している
「福助せんべい」の店で聞いたところ、
ここはかつて芸者さんが通った道だそうだ。
今回の茶席の菓子を頼もうとしている「竹隆庵 岡埜」に
たどり着いた。
9月の店頭にはなかった栗のお菓子が目に入る。
どのお菓子にするかまだ迷っている。
酒井抱一さんに相談してみたい。
江戸のまちを歩くと、いろいろな“亡霊”に出会う気がする。
普段は亡霊にはあまり会いたくないが、
今日だけはなんだかそばにいて相談にのってほしい。
そんな気持ちである。